以前、創発環境的な考え方、価値観というのはハイパーサイクルの中で次第に発展していくもので、その動きを加速させるものが必要だと考えていたのだけど、それが危ういところに繋がる可能性を再確認した。
果たして危ういと考えるのが適当かは今の時点だと想定シキレナイが、説明を試みてみよう。
創発環境が一番活性化される時というのは実は、ある程度組織がまとまっていて、でもオーブンである時という、価値観による囲い込みがなされて、かつ新たな価値が入り込む余地がある時なんだよね。(自己組織化の一要件でもある)
ただし、前提としてその価値観がある程度は規定されている必要がある。(一番ベースとなるルール。これも自己組織化の一要件)理想を言うと、老子的な無為自然がベースになっているとよいが、それが排他的、或はなんらかの価値観に偏った考え方で統制されていると危険な状況が生まれることがある。例えば、そういう状況を簡単にいえば持つものともたざるものの格差が広まった状況が考えられる(富も知識も情報も)。独裁された全体主義国家も近いかも。
そういう組織では参加者側の人間が気付かない内に、運営側が全体を支配する状況になりやすくなる。心と物質とも搾取される持つものとの二つに分断されてしまう状況、それが運営側により合理的に作られる。まあ、狙ってるから当たり前と言えばそうなんだけど、…そういう状況が生まれる危険性をはらんでいる。
というのは、統治する側というか、そういう囲い込みをした側の倫理感に寄るところが大きいからなんだよね。ベースの定め方だよね。
そういうところでいうと心なき、真理を装う第三者の台頭はこれからの時代はあってもおかしくないかなぁと…例えば影の政府のような存在とかね。気付かない内にやばい時代に突入してる感じがする。
やりようによっては相当上手くそういう状況に持っていけるから。
一つは深層心理的なニーズをつくという手。
発端は宗教革命による神殺しから始まっているのだけど、それ以来、人は神のような心の依り所を求めているということ。組織に属していたいという弱い心理の現れかもしれないが。ただ、その欲求が無害な宗教とかと結び付いてるなら、まだマシだけど、問題はビジネスと結び付いてる時なんだよね。一見、参加者にも世の中のためになっているように見えてウィンウィンに感じるところがくせ者なんだよね。その辺は免罪符と同じ。罪悪感がない分、質(たち)が悪い。考える力が足りない人や、考えない人は否定しきれないで、納得してしまうだろうな。確かにコミュニティビジネスとしては最強のシステムに成り得るけど、完全に管理された植民地みたいなものだから、それでよいのかという疑問は残る。
一般市民としては世の中の趨勢として流され、駆逐されれば良いのかもしれんが…。逆に言えば、知らない方が幸せといった合理的無知を正当化してしまうのが恐ろしい。
本当はそれに対抗しうる、システムを考えるべきだけど、その仕組みに人が対応するには、ベース価値観や世界の構造を教育しないとならないので、お節介な仕組みになりやすくて現実味が弱いかなぁと。
やはり、さりげない教育と囲い込むのどっちが早いかという半ばいたちごっこ的な展開しかないのかなぁ。
引き続き考えないとならんテーマだね。

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Taku Kotabe